先日、新型コロナウイルス感染症の影響による収入の減少を補填するため、運転
資金融資の申請を行った。
こういった状況ということもあって、担当者は非常にスピーディーな動きを採って
くださり、審査等も順調に進んでいて、感謝の気持ちで一杯となった。
しかし、一方で
申請に係る書類は、明らかに内容が重複している書類が何枚もあった。
こうした無駄を無駄とは思わないのは、日本人特有の思考なのだろうか。
身近でよく耳にする会話の中で、他者から一定の評価を受けたい場合に「私、一生
懸命やってます。」と訴える人が結構いる。
ここで言う評価は、必ずしも『結果のみを持って評価する』ということではなく、
経過も重要な要素となることを前提とする。
ただし、『一生懸命やっている』を評価基準の一部とする考え方が多くの人に定着
していることには違和感を覚える。
この『一生懸命』が重複する膨大で無駄な書類の生みの親に思えてならない。
そして、『一生懸命』は時に、論理性や効率性を阻む悪の巣窟と化すことがある
ように思う。
時間もお金も人材も、有り余るほど豊富にある状況であれば、ひたすら一生懸命に
やればよいのかもしれないが、非常時ではなくともそういった状況に身を置くこと
ができる人はそうはいないのではないか。
「一生懸命やっている」は、自らを鼓舞するために自分の心の中で唱える言葉で
あって、評価を得ようと人に話す言葉ではなかろう。
非効率な方法で膨大な時間を使って物事に対処している人が評価され、限りある
時間を効率的かつ有効に使って物事に対処している人が評価されないとするならば
『評価』って何なんだ?