今日は、77回目を迎える『長崎原爆の日』である。
昭和20年8月9日午前11時2分、アメリカ軍機から原子爆弾(プルトニウム
爆弾)が長崎に投下され、7万人もの尊い命が奪われた。
奪った命が1人であっても7万人であっても大罪に変わりはない。
以前目にした、元米兵の証言に大きな衝撃を受けたことを今でもはっきりと覚えて
いる。それは、「たとえ、一度に何万人もの人の命を奪うことができたとしても、
ボタン一つで投下できる爆弾の方が、銃を使って目の前の一人の敵を殺すことより
も兵士にとっては精神的に安楽なものである。」という内容だった。
その元兵士が言わんとするところは、「目の前で人が死ぬ様を見なくて済むので、
上空から爆弾を投下する方が心理的ダメージが少なくて済む」といったところ
だろうと思う。
「目の前で対象者が苦しむさまを見なくて済むし、自分自身が被るリスクも低くて
済むので、さほど心が痛まない」という点においては、“匿名による誹謗中傷”も
同じような構図である。
人は人を傷つけ続けなければ生きていけない動物なのか?
他人を攻撃することでしか、自分の存在意義や正義、価値観を保つことができない
のか?
だとすると、人はなんて“もろくて弱い”存在なのだろう。
今日も明日も、誰かが誰かをののしり、傷つけ、時には国家ぐるみで人を傷つける
ことが繰り返される。
私は人として強くありたい。
それは、破壊力のある武器を持つということではない。
とても難しいことではあるが、「誰かを傷つけなくても、自分の存在意義や価値観
を保つことができる」そんな人でありたい。
人としての弱さが、いさかいや争いごとを生むと思えてならない。