「人が人である以上は、100%ミスなく過ごす」ことは不可能である。
それは、人がどんなに条件が変わっても同じパフォーマンスを発揮できるという
構造にはなっていないからだ。
上り坂も下り坂も平坦な道と同様に歩いたり走ったりすることができないことと
同じく、条件が変わればパフォーマンスも変化するものである。
そして、内的外的要因から常に同条件に身を置くということもまた不可避である。
気象条件を常に一定に保つことが不可能であるように、自力ではどうすることも
できない環境の変化は日常にあふれている。
また、精神心理状態、身体(肉体)の状態を一定に保つことも難しい。これらは、
トレーニングなどによって変化の波を小さくすることはある程度可能かもしれない
が、それでも一定に保つことはどんな達人でも無理だろう。
つまり、人が人である限りはミスが付きまとうということである。
別段、ミスすることを肯定したいわけでも開き直りたいわけでもない。だが、起き
てしまったミスをどのように捉えて対処するのかは大事にしなければならないと
常に思っている。
そして、この捉え方や対処方法の違いが大きな分岐点になっていると感じている。
起きてしまったミスの大小にかかわらず、ミスしたこと自体に気が付かない。また
は、ミスしたことをなかったことのように取り扱ったり、やり過ごしたりする傾向
にある人がいる。こういう人はミスを繰り返しやすく、重大なミスを犯しやすい。
そして行き着く先は、隠蔽や偽装などの最悪のシナリオが待っている。
俗にいう「裏金問題」で話題となっている、政治資金収支報告書の不記載に対する
政治家の姿勢がまさにここに当てはまるだろう。
こういう政治家はこの手の過ちを繰り返すであろうことは予想に難くないし、いず
れ重大な過ちを犯す危険性をはらんでいる。この手の輩は国政に送り出すべきでは
ないだろう。
起きてしまったミスの大小にかかわらず、その結果と真摯に向き合い丁寧検証する
傾向にある人もまたいる。こういう人はミスを繰り返しにくく、人からの信用も
得られやすい。
ミスしたことを受け止めるのは意外と難しい。
人から非難されたくはないし、何らかの責任を取らなければならないことは出来る
だけ避けたいものである。
どうにかして責任の所在を転嫁するか曖昧にするかして、やり過ごしたいと考える
人がいても不思議ではない。
ただ残念ながら、そういった人は人から信用されない。