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平等という名の差別

2019.8.16

私は、『平等』という言葉が嫌いだ。

 

なぜなら、平等を実現するためには、『無数の条件』が伴うものであり、

現実的には、実現不可能だからである。

 

例えば、

「80㎏の体重の男性と40㎏の体重の女性に対して、平等に食べ物を分け与える」

と考えた場合、どのような条件が必要だろうか。

 

同じ量の食べ物を提供した場合には、男性から「体重が違うのに平等ではない。

倍の量で平等だ。」と文句が出るだろう。

それでは、「体重に応じた食べ物を提供する。」という条件を付けた場合は

どうだろうか。

 

すると女性から「私は成長期なのだから、老齢な男性と同じ条件は不平等だ。」と

文句が出る。

 

この時点で、

体重や年齢といった偏見や差別が発生していることにお気づきだろうか。

 

さらには、「食べ物の量は平等でも見た目や鮮度が違う。」といった具合に、

どんどん条件が増えていく。

 

2人に対する条件だけでも複数存在するのに、その数が10人、100人、1000人と

なれば、その条件の数は天文学的な数字になるだろう。

 

無数の条件の下で生活することは、もはや人間としての生活ではなく、ロボット

同然である。

自由は奪われ、能力や個性は完全に無視され、黙って従うしかなくなる。

まるで、隣国の北○○みたいである。

 

 

来年、東京でオリンピック・パラリンピックが開催される。

メダル獲得!といって一喜一憂する国民が多数いることだろう。

近年の陸上競技の100m走で白人選手や東洋人選手が優勝した場面を一度も見た

ことがなく、決まって黒人選手が優勝している。

個人差はあるものの、早く走るために必要な骨格や筋肉が人種によって違う。

ここで、平等をうたって、黒人選手にハンデを付ければ、差別以外の何物でも

ない。

 

奇怪な例えに聞こえるかもしれないが、小学校の運動会では平等をうたって徒競走

には順位を付けないところが多いそうである。

『足が速い』という個性を無視した抑圧以外の何物でもない。

その後、陸上競技の選手になったとたん、順位を付けられる矛盾をどう理解すれば

よいのだろうか。

 

 

 

平等とは、『差別や偏りなく、一様に等しい』ことをいうが、この平等を突き詰め

ると、かえって差別や偏見が目立つこととなる。

 

平等主義者ほど、差別や偏見にまみれた人たちはいないと言える。

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