『障がい』は、日本の法律上は身体障がい、知的障がい、精神障がい、発達障がい
とに分類され、心や体が正常な働きをせず、社会生活を正常に営むことができない
状態を指す。
多くの方がイメージする障がい(者)とは、病気や事故などで足が不自由になる
状態や生まれつき目や耳が不自由な状態を思い浮かべることだろう。
それでは、徒競走で足が人より著しく遅い人や手先が著しく不器用な人は障がい者
なのだろうか?
「医学的観点からそれは障害者とは呼ばない。」と多くの人が答えるだろうし、
私もそのように思う。
でも、そうした人たちが、足が遅かったり手先が不器用であるため、集団生活の
秩序を保った行動ができなかったとするとどう考えるべきだろうか?
「それは個々の課題であり、自助努力をするしかない。」と答える人がいるかも
しれない。
『障がい』を医学的観点でのみ捉える人はこのような思考になりやすい。
さらに言えば、『心や体の正常な働き』という医学の専門領域を注視するあまり、
『社会生活の正常な営み』という障がいの概念でもあるもう一つの重要な視点を
疎かにしてしまう人たちがいる。
病院や介護施設において、この『障がい』への理解や対応は不可欠なもの
となっており、問題を可決する専門職として俗にセラピストと呼ばれるリハビリ
テーションの専門家がいる。
その専門家たちは、障がいへの理解や対応が十分にできているのだろうか。
私見ではあるが、
「理解はできているが行動が伴っていない。あるいは理解自体が不十分である。」
人があまりにも多いと感じている。
その専門家の存在意義は、『心や体の正常な働き』を見極めて、『社会生活の正常
な営み』と照らし合わせて策を講じることにある。
にもかかわらず、「心や体を正常な状態に戻そう。」というテクニカルな行動に
偏りがちである。
そのため、「機能がこれ以上向上しない。加齢とともに徐々に低下していく。」
人への策を講じることが十分にはできていない。
つまりは「木を見て森を見ず。」=「病気を見て生活を見ていない。」と言える。
こうした専門家の中には、在宅(自宅)を主戦場としている人たちがいる。
当方が運営している訪問看護ステーションに所属するセラピストがそれにあたる。
『在宅(自宅)=家族や地域を含めた生活場面』を主戦場としている彼らにとって
「生活を見る。」ということはごく当たり前のことであり、「生活を踏まえたリハ
ビリテーションの実施。」が必然である。
病院の入院患者や施設の入所者としか、かかわりを持ったことがないセラピストに
は、是非とも在宅(自宅)を主戦場とする現場に足を踏み入れてもらいたいと切に
願うところである。