北海道江別市でケアプランセンター、小規模多機能ホーム、デイサービス、訪問看護ステーションを運営するみのりの丘グループ

みのりの丘

みのりの丘代表ブログ

月別: 2021年9月

病気になることは罪ではない

2021.9.24

この1年半、『コロナ渦』にあって

「とにかく感染してはいけない。広げてはいけない。」との思いから、出来得る

限りの感染症対策を講じてきたし、個人的な行動制限も行ってきた。

 

当然のことながら、感染しないに越したことはない。まして他の人に染してしまう

などと言うことは絶対に避けたい。そのためには、引き続き感染症対策が重要に

なってくる。

しかし、この感染症対策が大きな声で繰り返し叫ばれる中で「とにかく感染しては

いけない」との思いが強くなると、同ウイルス感染者がまるで罪人のような扱いを

受けてしまうことがある。

「自ら同ウイルスを浴びに行った」という人はほぼいないわけで、対策に不十分な

点があったとしても、望んで感染した人などいないだろう。

 

似たような状況が『認知症予防』にも言えるような気がしている。

認知症に限らず、病気にならないに越したことはないし、出来る限りの対策や予防

を講じたいと多くの人が考えていることだろう。

それでも、望まずして病気になってしまう人はいるし、認知症のような加齢に伴い

発症するリスクが大幅に上がる病気に関しては、避けようとしても避けきれない。

にもかかわらず、ひとたび認知症を発症してしまうと厄介者や罪人のような扱いを

受けることがある。

 

できれば、認知症予防が大きな声で繰り返し叫ばれることと同じくらいに「認知症

になったっていいじゃん」と繰り返し叫びたい。

そのためには、たとえ認知症を発症したとしても不安なく生活を継続することが

できるような世の中の仕組み作りや必要な社会資源を創造していかなければなら

ないと強く思う。

やらなければならないことは山積しているが、一歩ずつ丁寧に進んでいきたい。

人間の原動力は「心」

2021.9.23

『全国の市町村が介護予防などを展開している介護保険の地域支援事業について、厚生労働省は21日に実施要綱の改正を通知した。要支援、要介護と認定される前の高齢者も幅広く対象とする「一般介護予防事業」の記載の見直しが柱の1つ。体操などの「通いの場」を推進していく方針が以前より強調された格好となった。

加えて、以下のように新たに書き込んでいる。「介護予防に資する住民主体の通いの場は、高齢者がそれぞれの年齢や性別、 健康状態、関心などに応じて参加できるよう、市町村が介護保険制度による支援を行っているものに限らず、スポーツや生涯学習に関する取り組みなどを含め、多様な内容の実施が期待される」、「地域作りの推進や男性の参加促進などを図る観点から、防災や交通安全、地域の見守りなどの取り組みとの連携も期待される」』

との報道を見て思うこと。

 

 

2週間ほど前の当ブログで

『国は「高齢者は体力が衰え、口腔機能が低下し、食事量が減ることで介護が必要な状態になってしまう」という理屈に基き、運動・栄養・口腔の医学的改善プログラムを繰り返し行ってきた。

あきらかな病変があって対処する必要がある場合には、治療を受けることになるであろうが、人間の精神活動を医学的アプローチで改善しようとする考え方には無理がある。介護予防には、医学的アプローチよりも地域活動への参加などの方が効果が高いという研究結果も出ている。介護予防について国がやるべきことは、場所や人を提供することであって、細かく実践内容に口出しすることではない。』

と指摘及び提言した通りの方向性になってきた。

 

1年以上続いている『コロナ渦』でよくわかったことだろう。

「心と体は表裏一体」なのである。単調な医学的アプローチによって病気(体)を

いくら改善しても、心がついて来なければ『真の健康』は得られないのである。

 

今回通知された実施改正の内容が、「絵に描いた餅」にならないことを心の底から

願う。

杭打ち、そして基礎工事へ

2021.9.14

来春開設予定の看護小規模多機能型居宅介護(ナーシングホームみのりの丘)の

新築工事建設許可が受諾されたことは先日お伝えした通りで、いよいよ基礎工事が

開始される。

 

先週末には、同工事に先駆けて『杭打ち』が行われた。

 

そして今週末からいよいよ基礎工事が始まる。

 

「新築工事の予定地は特別地盤が悪いわけではないのに杭打ちが必要なんだなぁ」

とつぶやくと、すぐに工事を請け負う事業者から「建築基準法上必要なんです」と

突っ込みを入れられた。

 

ど素人がしゃしゃり出る幕は無さそうである。あとは事業者にお任せして、完成を

心待ちにしながら、我々がやらなければならないことを準備していこうと思う。

今後も当ブログでこの工事の進捗状況をお伝えしていきたい。

 

食事の専門家

2021.9.13

1年前、当ブログでこんな記事を紹介したことがある。

全国老人保健施設協会の東憲太郎会長から「転倒や転落、誤嚥を事故と認定することについて少し意見を言いたい。例えば、認知症で危険の意識がなく歩行能力も衰えている方などが転倒されるということは、もう事故ではなく老年症候群の1つの症状ではないかと思う。」さらに続けて、「我々はもちろん拘束はしないが、転倒などを事故とすることで訴訟が頻発している。しかも敗訴が多く大変問題となっている。転倒や転落、誤嚥は本当に事故なのか、ということも検討して頂きたい。」呼びかけた。

おそらく、この発言は特別養護老人ホームに入居されていた方が出されたおやつを

召し上がった後に死亡したことに対する施設職員の刑事責任を問う判決を受けての

ことであろうと思う。

 

この発言を受けて、私は現場を代弁してくださった東会長に感謝を申し上げると

同時にリスクを抱えながらも『生かされるのではなく生きる』ことを支援したいと

申し上げた。

そして、そのためには命に直結する危険性が非常に高い『誤嚥』への対応が重要で

あろうと思っている。

 

医療の業界には、食事をとる行為へのアプローチを専門とする『言語聴覚士』や

提供する食事そのものへのアプローチを専門とする『管理栄養士』などの専門職種

がいる。そして、当方には、その2職種の専門家が在籍している。

 

今現在も食事を摂ることへのトラブルを抱えているご利用者の対応をしているが、

来春開設予定の看護小規模多機能型居宅介護事業を開始すると同様のトラブルを

抱えるさらに多くのご利用者とお会いすることになると考えている。

そうした状況に備えて、上記2職種を中心にして、様々な状態にあるご利用者を

想定したシュミレーションを行っている。

 

私たちは、これからも『生きる』ことを積極的に支援したいと考えており、その

ためには、妥協することなく取り組みを続けたいと思う。

低負担・高福祉はもう限界(その2)

2021.9.10

前回、

『低負担・高福祉』と言われる我が国の社会保障制度、特に医療保険や介護保険は

支出に見合う収入が得られないため制度崩壊寸前である。

もういい加減、路線変更しないと本当に崩壊してしまう。

そして、

① 国が保証するのは必要最低限の福祉として、上乗せ部分は全て自費とする。

② 介護予防は枠組み作りのみを国が支援し、実践は民間や地域に任せる。

③ 低所得者救済は上記のそれとは別の枠組みで対応する。

と提言した。

 

①が議題にあがると決まって、「社会保障に貧富の差をつけるのはけしからん!」

と猛反発が出る。しかし国が保障すべきなのは憲法に定められる『健康で文化的な

最低限度の生活を営む権利』であって、最高級の権利まで保障することではない。

経済大国であろうと途上国であろうと、人間社会において貧富に差がつくことは

避けられないし、そのことで受けられる恩恵に差がつくことも避けられない。

それに、「社会保障に貧富の差をつけるのはけしからん!」とかいう人に限って、

「生活保護受給者が自分より贅沢な暮らしをしていてけしからん!」などと言って

みたりする。

たしかに、生活保護にかかる住宅扶助が、最低限度の生活にあたる家賃を保障する

のではなく、高級マンションの家賃を保障するとおかしなことになってくる。

介護保険制度においても、低負担・低福祉をベースとして、より高度な福祉は自費

とすることで、より多くの方が福祉の恩恵を受けることができるのではないかと

思う。

 

②については当ブログで、国が掲げる介護予防プログラムの愚と題して再三指摘し

てきたとおりであるが、「高齢者は体力が衰え、口腔機能が低下し、食事量が減る

ことで介護が必要な状態になってしまう」という理屈に基き、運動・栄養・口腔の

医学的改善プログラムを繰り返し行ってきた。

あきらかな病変があって対処する必要がある場合には、治療を受けることになるで

あろうが、人間の精神活動を医学的アプローチで改善しようとする考え方には無理

がある。介護予防には、医学的アプローチよりも地域活動への参加などの方が効果

が高いという研究結果も出ている。

介護予防について国がやるべきことは、場所や人を提供することであって、細かく

実践内容に口出しすることではない。

これではまるで、地域の公園で行われる『朝のラジオ体操』の細かな内容や参加

メンバーの基準を厳密に国が決めるようなものだ。本来は、土台ができたらあとは

地域に任せるべきで、地域で困りごとが発生した場合にサポートすればよいだけ

だろう。

 

①、②を徹底することで、介護保険が制度化された当初に広げすぎた大風呂敷を

随分とコンパクトにできるように思う。

 

③については、『最低限度の生活保障=低所得者救済』と勘違いすると話がやや

こしくなる。最低限度の生活を営む権利は全ての国民に当てはまることであり、

そのために必要とする保障の度合いが高いか低いかの違いがあるだけのことだ。

これは、どの世代のどの制度に対しても当てはまることであり、各種社会保障制度

とリンクすることではあっても同一のものではない。

それを「高齢者だから、弱者だから」などと論点をずらしてしまうと制度そのもの

がブレブレになってしまう。

 

高齢者人口が増え続け、若者が減り続けている今、『低負担・高福祉』から脱却

しなければ、より一層「路頭に迷ってしまう人」が増え続けることになるだろう。

 

当然本意ではなくだまし取られるという形ではあるが、詐欺を働く犯罪者へ金銭を

支払うくらいなら、受けた社会保障に対する費用負担に回した方がよほど健全で

あろう。

そういった観点などから、社会保障費の自己負担増額は、むやみに反対するべき

ではないと私は思う。

低負担・高福祉はもう限界(その1)

2021.9.9

厚生労働省は31日、介護保険の運用の動向を明らかにする「事業状況報告」の最新版を公表した。それによると、2019年度の介護保険の費用額は10兆7812億円。前年度比で3493億円(3.3%)の増だった。

費用額から高齢者の自己負担分を除いた給付費は9兆9622億円。前年度比で3355億円(3.5%)の増となっている。費用額、給付費ともに過去最高を更新。高齢化による介護ニーズの拡大が最大の要因とみられている。給付費の膨張は今も進んでおり、今後も続いていく見通しだ。

あくまでも現時点での見込み額だが、厚労省は来年度の給付費が12兆2652億円にのぼると想定。2024年度に控える次の制度改正・報酬改定に向けた議論では、社会全体で介護の負担をどう分かち合っていくか、制度の持続可能性をどう確保していくかが最大の焦点となる。

との報道を見て思うこと。

 

国立社会保障・人口問題研究所によると、この先20年は高齢者の数は増え続ける

と言われている。そのため、しばらくは毎年このような報道を繰り返し聞くことに

なると考えられる。

『低負担・高福祉』と言われる我が国の社会保障制度、特に医療保険や介護保険は

支出に見合う収入が得られないため制度崩壊寸前である。

もういい加減、路線変更しないと本当に崩壊してしまう。

 

しかし、このような話題になるとアホなマスコミは決まって、「弱者の切り捨て」

と大騒ぎし始める。当ブログで何度も言っているが『弱者=高齢者』ではない。

十分な収入が得られず生活を維持することで精一杯という若者も大勢いる。そして

増大する高齢者の『低負担・高福祉』を維持するための財源として、その若者の

少ない収入から更に多くの負担を「むしり取る」ことになる。

 

結果として、「親元を離れられない」、「望まずとも共稼ぎしなければならない」

「自分の子供に同じような苦労はさせたくない」など、少子化を加速させる要素が

どんどん増えてくる。

 

毎日のように「高齢者が詐欺被害に遭った」との報道を聞いて思うことがある。

詐欺を働いた不届き者への怒りと同時に、その不届き者はアホなマスコミの報道を

鵜吞みにせず、今の高齢者は数百万円、数千万円という高額を支払う能力がある

ことを知っているということである。

さらに言えば、今の若者は生活に困窮しているので、『受け子や出し子』のように

捕まるリスクの高い役割を低賃金で担ってくれることも知っている。

 

詐欺を働く犯罪者を擁護する気など微塵もない。徹底した処罰と撲滅、そして可能

な限りの再犯予防や更生を心から願っている。

ただし、きれい事を並べるマスコミやきれい事しか目に入れたがらない一部の国民

よりもよほど現実社会を理解している。

 

ご利用者宅へお邪魔した際に、服用する意思がない多量の内服薬や湿布剤を目に

すると複雑な思いに駆られる。

「服用しないのなら必要無いのでは?」との問いかけに「保険利いて安いし、いつ

か誰かが使うかもしれないから」などと答えが返ってくると愕然としてしまう。

 

そこで私はこう思う。

① 国が保証するのは必要最低限の福祉として、上乗せ部分は全て自費とする。

② 介護予防は枠組み作りのみを国が支援し、実践は民間や地域に任せる。

③ 低所得者救済は上記のそれとは別の枠組みで対応する。

少し長くなってきたので、続きは次回に持ち越すこととする。

 

混乱時期こそ備えを

2021.9.7

『胆振東部地震』が発生して3年が経過する。

「わずか3年前に起きたあの大きな震災は記憶に新しい。」はずである・・。

 

しかし、昨年から国内外で大流行している新型コロナウイルス感染症の影響も

あってか、あの凄まじい震災の記憶が少し遠くに行ってしまっている感覚がある。

実際に、震災後には様々な防災にかかるイベントや取組が行われていたが、昨今

同感染症の影響で大勢が集まるということ自体がなくなってしまっている。

また、多くの店頭に並んでいた防災グッズが鳴りを潜め、感染症対策グッズに置き

換わっている。

 

深夜にあの大きな地震が起きた直後の大混乱を思い起こすと「身の毛がよだつ」

思いがよみがえってくる。店頭からはほとんどの商品が消えてなくなり、ガソリン

スタンドには長蛇の列ができていた。水や食料、電源を確保することで必死になり

ながら、ご利用者やスタッフ、関係者の安否を確認して回っていた。

唯一の幸は冬期間ではなかったことぐらいであるが、北海道の冬で同様のことが

起きると10倍、100倍の被害が出てもおかしくはない。

同地震の震源地と言われている厚真町では、未だに余震が頻繁に続いているとの

ことであり、また復旧できずに震災後のまま手付かずの場所も多くあると聞く。

 

自然災害は、「空気を読む」ことはない。

人類がどれほどウイルス感染症に苦しめられていようとも、その影響で医療や介護

の現場がひっ迫していようとも、「手を抜く」などと言うことはせずに容赦なく

襲ってくるものである。

 

同ウイルス感染症で混乱している今だからこそ、今一度『防災』について深く考え

備えてみたいと思っている。