北海道江別市でケアプランセンター、小規模多機能ホーム、デイサービス、訪問看護ステーションを運営するみのりの丘グループ

みのりの丘

みのりの丘代表ブログ

アーカイブ: ブログ

小規模多機能ホームみのりの丘(誕生日会)

2020.9.18

昨日開催した当方が運営する『小規模多機能ホームみのりの丘』の誕生日会を

ご紹介したい。

ご利用者の誕生日を祝うこの会の日程は、誕生日当日に当該ご利用者が利用して

いないことも多く、同月に複数の該当者がいることもあるため、月に1回開催して

いる。(該当者がいない月は行っていない)

 

今月はお二人の方の誕生日をみんなでお祝いした。

予め、該当するご利用者のご意向を伺い、催しや食事内容を決めている。

 

今回の出し物は、スタッフによる寸劇『金色夜叉』だった。

 

 

 

 

 

 

普段の仕事ぶりから想像できないような迫真の演技もあれば、ナレーションが

1ページ飛んでしまうドタバタなどもあったが、ご利用者から歓声や合いの手を

いただくなど大いに盛り上がった。

 

通常業務の合間に誕生日会の準備をしてくれていたスタッフの皆さん、お疲れさま

でした。

ご利用者の皆さん、楽しんでいただけたでしょうか。

在宅という選択肢

2020.9.17

昨日の早朝に担当していたご利用者の訃報が入った。

 

ご家族の懸命な介護もあって、担当医から告げられていた予後をはるかに超える

期間自宅で過ごすことができた。

そのせいか、ご家族皆さんの表情が悲しみの中でどこか満足気にも見えた。

「病院への入院を選択するか、在宅で看取りを行うか」について、担当医や関係者

と何度も話し合った。その都度、ご家族の心は大きく左右に揺れ動いていたように

思えた。

それでも、ご本人の思いにご家族が懸命に応えて最期を迎えた。

この場を借りて、ご冥福をお祈り申し上げます。

 

先日、地域にお住まいの方が「最近、近所の人がよく亡くなる。」とつぶやいて

いたことを思い出した。

たまたまいくつかのご不幸が重なっただけのことであり、人の生死を操作できる

ものなどないことは誰もが知っている。

 

しかし、その感覚は強ち『個人の思い込み』ではないようにも思える。

 

時代背景や社会環境の変化によって、ご自宅で最期を迎える方が増えている。

事実、当方がかかわった方々の中で自宅で最期を迎えた方の割合がここ数年軒並み

増えてきている。

 

たとえ近所にお住まいだった方であっても、長年病院や施設に入っていたのちに

お亡くなりになったと聞かされた場合には、身近なこととして感じにくいように

思う。

ところが、さほど親密なお付き合いのなかった方でも「近所の〇〇さん、昨日

ご自宅で亡くなったんだって。」と聞かされると身近なことに感じやすいように

思う。

それほど、ご自宅で最期を迎えるということは、周囲の人に多大な印象や影響を

与えるように感じる。

 

別段、最期を迎えるべき場所は『施設か自宅か』を議論したいわけではないし、

いづれであっても、正解不正解などと簡単に審判することではない。

 

それでも我々が『在宅』にこだわり続けるのは、ご本人がそう望んでいても、社会

環境等の理由で『在宅生活の継続』が選択肢にすら挙げられないことがあまりにも

多かったからである。

『ご本人が望む在宅』が選択肢に挙げることができるよう、微力ではあるが活動を

続けていきたい。

大根観察日記(その7)

2020.9.16

やっと『大根ぬき』のチラシができた。

 

私が作ったチラシ(仮)のあまりの不出来に、スタッフが失笑し、代わりに作って

くれた物が上に掲載したものである。

私には芸術的なセンスが無いことはわかっていたつもりであるが、自分が作った

『チラシもどき』との差があまりにも大きく感動した。

 

今回はコロナ禍にあって、地域の皆さんへ広く参加を募集することができず、予め

決まった方々と行うこととなったが、来年は是非とも多くの参加者を募集した活動

としたいと考えている。

 

観察日記と言いつつ、本日の大根の画像がない・・。

 

評論家の存在意義

2020.9.15

安部前総理大臣が辞任し、菅新総理大臣が誕生した。

何度も書いているが、誰がいいとか悪いとかをこの場で言うつもりはない。

 

それよりも、テレビや新聞等で経過を鑑みず結果だけを見て「ああしろこうしろ」

とのたまわっている評論家とかいう人たちの存在の方が目に留まる。

前総理大臣に対しては「コロナ禍であり、かつ政策途中で政権を投げ出すことは

極めて無責任だ」と発言している輩もいる。

辞任に至るまでには多くの葛藤があり、体調と相談しながら考え悩んだ結果の辞任

であることは容易に想像できるし、途中で投げ出したいわけがなかろう。

仮に評論家の言うとおりに対処して、うまくいかなくてもその評論家は何一つ責任

をとることはない。そちらの方がよほど無責任であろう。

 

さらには、「私の言うとおりにしないと有権者は離れていくぞ」と言ってみたり

する。ここまでくると意見というよりは単なる脅しである。

 

テレビの世界に限らず、『にわか評論家』はどこにでもいる。

その中には、広い視野を持ち、経過や中身を吟味し、建設的な意見をいう人も

いるが、その多くは自分の価値観を強引に押し付けてきたり、前述の評論家の

如く、真意を理解しようともせずに上辺だけを取り上げて『結果論と上げ足取り』

に終始し、意見と称して批判する人が多くいるように思う。

 

評論家の中には「批判することが私の仕事だ」という人がいる。

そういう人は、建設的に物事を進めるうえで必要な意見を述べることと、人のやる

ことなすことの上げ足を取ることの違いを理解していないのではないだろうか。

また、自分がため込んだストレスのはけ口を関係のない人へ向けていたり、自己

表現の場を求めて他人を批判しているだけと思えることもある。

にもかかわらず、「世の中の正義のため」とか「その人のためになるから」などと

言って自分の価値観を押し付けてくる。

それを仕事と称している思考が理解できない。

 

総理大臣だって人間だ。清廉潔白でなければいけないというものでもなければ、

間違えることだって、結果が思った通りに行かないことだってある。

結果だけを見てあれこれ言う『後出しジャンケン』なら誰だって勝てる。果たして

その行為に何の意味があるというのだろう。

やらなければならないこと、考えなければならないことが山積している中で、日々

こうした無責任な評論家と付き合わされて、さぞうんざりしていることだろう。

 

とか言いつつ、批判する人を批判している私も「同じ穴の・・・」か。

定年への思い

2020.9.14

当方の規程では『定年』は70歳となっている。

 

今月末で定年を迎えるスタッフがいる。

まだ歴史の浅い法人ではあるが、定年まで勤めていただいたスタッフがいることを

誇らしく思うし、同スタッフには感謝の気持ちで一杯である。

 

体力・気力・能力いずれも申し分はないと判断していたため、継続雇用を考えて

いたが、スタッフ側の都合があり、残念ながら退職することとなる。

 

定年は、人生における一つの区切りとして大きな目安となるように思う。

経営者にはその区切りとなる定年がない・・。

体力・気力・能力が現状に追いついていかなくなれば、それが一つの区切りとなる

であろうことは想像できるが、自己判断に委ねられるとすると責任は大きい。

 

健康における自己管理を行うとともに、後輩の育成に努めたいと改めて気の引き

しまる思いが湧いてくる。

大根観察日記(その6)

2020.9.11

今日は、収穫時の企画である食育講座に携わっていただく、酪農学園大学の先生、

学生と下見を兼ねて『雑草取り』を行ってきた。

 

学生の皆さんは、1年次に畑で作物を育てる実習があるらしく、前日の雨でぬかるん

だ畑の中も何の抵抗もなく入って行く。

お一人、やや不慣れな手つきで作業している人がいると思って見ていたら先生だっ

た。(笑)

 

それにしても、ほったらかしにしすぎていたため、こんな状態になっていた。

 

先生、学生の皆さん、

雑草取りまでさせてすいません。とても助かりました。

収穫当日も楽しみにしております。

ウイルスか人かとか言ってていいのか

2020.9.10

新型コロナウイルス感染症拡大への対策はまだまだ続く状況にあるが、

先日、ある記事が目に留まった。

 

その内容は、

新型コロナウイルスに感染する恐れがあることを理由に、必要な外部の介護サービ

スを入居者に使わせない有料老人ホームやサービス付き高齢者向け住宅があるとし

て、厚生労働省は改善を求める通知を4日に発出した。~中略~ 有料老人ホームや

サ高住の入居者には、外部の訪問介護、訪問看護、訪問診療、通所介護などを使っ

て生活を維持している人も多い。~中略~ 厚労省の担当者は、「感染拡大の防止

が非常に重要なのは分かるが、過度な一律の制限によって入居者が逆に追い込まれ

てしまうことのないように配慮して頂ければ」と話している。

という内容だった。

 

当方が運営している通所介護事業所をご利用中の有料老人ホームにご入居されて

いる方が何名かいらっしゃるが、未だに当方の事業所を利用できず制限を受けて

いる方がおり、中にはその間に心身の状態が悪化して他の支援を受ける必要が高ま

ったことで当方の事業所の利用を終了することになった方もいる。

 

明確な因果関係を証明できないため、「当方の事業所の利用を中断したから心身の

状態が悪化した」というつもりはないが、そうした施設に対しては、「思考停止

せず創意工夫を!」と訴え続けており、今もその考えに相違はない。

 

一方で、ウイルス感染症研究で著名な大学の研究者が「ウイルスよりも人の方が

私は怖い」と言っていたことがいまだに印象に残っている。

 

同氏は「PCRが独り歩きしてしまっている。その検査は、感染力がない保菌者であ

っても陽性と出る。また、陰性と出た人の中にも保菌者はいる。検査を受けた次の

日に感染する可能性は大いにある。検査なので当然治療の効果などはない。にも

かかわらず、とにかく検査数を増やせば安心できると訴える人があまりにも多い。

毎日検査を受けたとしても安心材料にはならないし、症状がない人にまで検査を

行うことは国家予算の無駄遣いにしかならない。より有効な手立てに時間とお金を

費やすべきだ。ウイルスや検査に対する知識が十分にはない人が誤解を生みだし

拡散し、差別や偏見を助長して、適切な感染症対策の邪魔をしている。」と訴えて

いた。

 

身近なところでは、

「毎日情報が発信されている新型コロナウイルスの道内感染者の内訳で石狩管内と

表示されている件数のほとんどが江別市である。正確な件数を把握するためにも

積極的に地域の公表を行ってほしいと言っている医療機関がある」とのうわさを

よく耳にする。

こうしたうわさ話もまことしやかに拡散され、多くの市民の不安と恐怖心を煽って

いる。そして、感染が表に出ると誹謗中傷される地域だという誤解が生まれ、益々

公表を躊躇してしまうことになる。

 

有料老人ホームの経営者の中には、本当に怖いのはクラスターの発生ではなく、

誤解から生まれる悪評の方と考えている人がいるかもしれない。

 

ただし、怖いのは人かウイルスかと言って警戒強めたとしても、その対応や対策の

中心にご利用者や入居者が不在であれば、それは本末転倒であろう。

通訳を上手に活用できれば

2020.9.9

ケアマネジメントの現場において『医療と介護・福祉の連携が重要』と言われ続け

ている。そして、国の政策も手伝って、医療と介護現場間の情報の共有は格段に

進展してきている。

 

ただし、情報を共有することと連携することとは必ずしも同一のものではなく、

情報を持っていても上手く連携できないことがケアマネジャーの課題として指摘

されている。

 

一般的な医療機関には、医師のほかにコメディカル(看護師や薬剤師、リハビリ職

等)や相談援助職、事務職などがいる。そして、それらの方々は医学的な知識に

基づく『医療』という共通言語を用いてそれぞれの職務に従事している。

 

一方、ケアマネジャーは統計データによるばらつきはあるものの、半数以上が医療

機関で務めた経験がなく、その大半がコメディカル等の医療系の資格を持っていな

いといわれており、『医療』という言語になじみがないまま職務に従事しなければ

ならない方がいる。

 

例えるなら、外国へ移住する予定がなく、語学の習得を目指していなかった方が

急遽外国で生活しなければならなくなったような状況で、多くの方が言葉や文化の

壁に阻まれて思うように生活を営めなくなってしまうようなものである。

中には、知人や友人を積極的に増やすよう努めるなどして、早々に言葉や文化に

なじんでいく方もいることだろうが、キャラクターを拠り所とする点が多いため、

標準的とはいいがたい。

 

「生活は続けなければならない」でも「すぐに外国語を習得することも難しい」と

なった場合に多くの方が活用するのは『通訳』ではないかと思う。最近では、その

場で翻訳するアプリなどもあって利便性が格段に上がっている。

もはや、ドラえもんの道具が現実のものとなってきている。

 

介護現場において『医療』は、重要な言葉ではあっても標準語ではない。

ケアマネジャーにとっての『通訳』は誰なのかと考えた時に、それは訪問看護師で

はないかと思う。彼らは『医療』という言語を当然知っているし、『生活』という

介護現場の標準語にも精通しているバイリンガルである。

『医療と介護・福祉の連携』の推進には、ケアマネジャーが如何に通訳としての

訪問看護を上手に活用できるかにかかっているように思う。

大根観察日記(その5)

2020.9.8

10月9日に予定している収穫の企画に進展があった。

 

地域の皆さんで作物を育てて、地域の子供たちと収穫することを通じた食育と世代

間交流を目指して立ち上げた企画であったが、コロナ禍にあって大幅に企画内容を

変更せざるを得ない状況となっていた。

 

ところが、大麻にある『ゆめのみ保育園』の波田園長先生が同企画にご賛同くだ

さったことで状況が一変した。

同保育園の園児十数名が大根ぬきに参加してくれることになった。

 

おかげで、食育講座の準備をしていただいていた酪農学園大学の学生にも活躍して

いただけそうで本当に良かった。

 

今日の大根の発育状況はこんな感じ!

 

「生きる」ことを支援するということは

2020.9.7

3年に1度の見直しが行われる介護報酬改定の内容を審議する介護給付費分科会が

先月27日に開催され、同分科会で『経営者で組織する団体の代表が、現場で発生

する事故の扱い方について問題を提起した』という記事が目に留まった。

 

同記事によると

全国老人保健施設協会の東憲太郎会長から「転倒や転落、誤嚥を事故と認定する

ことについて少し意見を言いたい。例えば、認知症で危険の意識がなく歩行能力も

衰えている方などが転倒されるということは、もう事故ではなく老年症候群の1つの

症状ではないかと思う。」さらに続けて、「我々はもちろん拘束はしないが、転倒

などを事故とすることで訴訟が頻発している。しかも敗訴が多く大変問題となって

いる。転倒や転落、誤嚥は本当に事故なのか、ということも検討して頂きたい。」

呼びかけた。

とのことだった。

 

個人的な感想としては、それなりに立場のある方が公的な会議の場でここまで大胆

に踏み込んだ発言をしたことに対して非常に驚いた。

 

当たり前のことであるが、私たちも転倒や誤嚥を起こしたいわけではない。

そのような状況にならないように話し合いを重ね、できる限りの対策を講じ、細心

の注意を払って支援にあたっている。

それでも残念ながら転倒や誤嚥は起きてしまうし、その多くは人的には防ぎようが

ないことが多い。

 

当然、ご利用者には大変申し訳ないことをしてしまったという思いが残る。

しかし、それらすべてを『人的ミス』と片付けられ、果てには訴えを起こされて

しまうと現場は委縮して何もできなくなってしまう。

 

こうした状況が常態化してしまうと

ご利用者から「少しでも歩けるようになりたい。」というご意向を聞いていても

現場は「転んで怪我して訴えられたら困るから黙って座っててください。」という

ようになってしまうかもしれない。

また、ご利用者から「もう少し形のあるものを食べたい。」と言われても、現場は

「誤嚥して肺炎にでもなったら訴えられるから今まで通りミキサー食だけ食べて

いてください。」というかもしれない。

果てには、認知症状が出ている方に対して、身体拘束の必要性の再考を求める声が

出てくるかもしれない。

 

『単なる延命ではなく生きる』ことを支援したい私たちにとっては、このような

状況になってしまうことは無念であり苦痛でしかない。

仕事のやりがいを無くしたスタッフは、「私たちはロボットを支援しているわけ

ではない。長年人生を歩まれ、その経験から生まれたご意向や生活習慣を持った

人間を支援しているんだ」といって現場を離れていくかもしれない。

 

このようなことを言うと「職務怠慢の言い訳だろう!事故が起きても許される

免罪符を持ちたいのだろう!」とご批判を受けるかもしれない。

そのため、多くの経営者や現場スタッフは喉元まで出かかっても言葉を飲み込んで

『事故』への謝罪をし続けていたのである。

私たちがやらなければならないことは、「とにかく謝罪する」ということではなく

生きることを支援する上で予測される身体的、精神的、経済的リスクの評価と対応

をご利用者やご家族へ丁寧に説明して同意をいただき、状況が変わる都度に説明と

同意を行うことではないかと思う。

 

多方面から批判を受けるであろうことを承知の上で、私たちの苦しい思いを代弁

してくださった老健協の東会長には感謝の気持ちでいっぱいである。

 

そして私たちはこれからも、リスクを最小限にとどめつつ、『生きる』こと

を支援し続けたいと思う。