北海道江別市でケアプランセンター、小規模多機能ホーム、デイサービス、訪問看護ステーションを運営するみのりの丘グループ

みのりの丘

みのりの丘代表ブログ

月別: 2022年5月

豊かな人生を過ごすために

2022.5.31

私は、学生の時に某新聞社の写真部でアルバイトをしていたことがある。

その仕事の主な内容は、新聞社所属のカメラマンの助手といったところであるが

人手が足りない時には、カメラマンに代わって取材現場に出向き、写真を撮影する

と言ったこともあってとても興味深いものであった。

ある時は、繁華街で友人と飲食していたところ、近くで火災があったため、現場へ

出向き撮影した写真が紙面に載ることもあれば、またある時はサッカーJリーグ発足

元年で、札幌市で試合が開催されることになったが、カメラマンの人手が足りず

私が代わりに出向くことになり、その時撮影した写真がスポーツ面に載ることも

あった。(今では考えられないことが日常的にあった)

 

そんな興味深い内容であったことに加えて、当時所属していたカメラマンやアルバ

イト仲間が非常に個性的で興味深い人たちばかりだったので、未だに親交があり

数年に1度は会っている。

 

先週末、当時その写真部の管理職だった人物の『終活写真展』があると伺い、当時

のアルバイト仲間数名と一緒に会場へ足を運んだ。

その方は、新聞社を定年退職後にフリーのカメラマンとして活動されており、80

歳を超えた今も精力的に活動されている。幾つになっても衰えることのない、その

情熱には感銘を受けるとともに大いに刺激を受けた。

 

また、集まった仲間との会話で「時代は大きく変わったなぁ」と感じることも多く

あった。

今は、撮影した写真を全てデジタル処理するため、現像機でネガを作ることも、

印画紙に焼き付ける作業もないらしい。そのため、暗室は物置と化しているとの

ことであった。

当時、現像機や暗室がない地方へ取材に出向いたときには、専用の機材や薬液を

持参して、トイレを暗室代わりにしてネガを作っていたものである。

今では同新聞社は当時のようなアルバイトを雇用していないため、助手的な役割も

社員が全て自分で行っているらしい。

 

コロナ渦にあって、中々会うことができなかった仲間と久しぶりに再会し、昔を

懐かしむとともに大いに刺激を受けることで、英気を養うことができた。

事業を運営していると、諸問題にぶち当たることも多く、ついつい愚痴っぽくなっ

てしまうことも多くあるが、前を向いて行こうと思える一時であった。

 

人は人との結びつきがあってこそ、豊かな人生を過ごすことができると思う。

コロナ渦の交流の分断が1日でも早く終了することを心より願うばかりだ。

仏作って魂入れず

2022.5.30

国内で事業を行うためには、様々な法令に基づいて運営しなければならない。

予め決められたルールであるため、我々も当然その法令に従って事業運営を行って

いる。

しかし、全国一律の法律や制度であるはずのルールが地域によってあるいは担当者

によって大きく解釈が変わる(いわゆるローカルルール)ことを何度も目の当たり

にすると「ルールって一体何なんだ」と思うこともしばしばある。

 

当方が遵守しなければならないルールの中に介護保険法というものがある。

この法制度は、3年に1度ルール変更(見直し)されるものではあるが、基本的に

全国で一律に適応されるものとなっている。

そして、我々事業者は、そのルールを監督する行政機関から日常的に様々な種類の

書類の提出を求められる。

 

「ルールなんだから従えばいいだけだろ」と言われればその通りなのだが、年々

複雑化する一方であることに加えて、前述のローカルルールが横行する現状を見る

と、『難解なクイズに解答している』気分になる。

 

先日、当方が誤った書式の申請書類を提出してしまったため、ある種のペナルティ

を受けることになったという事案が発生した。

こちらが間違えていたのだから当然の結果なのだが、「この場合の正しい書式って

どこにあるのだろうか」と思い、行政が公開している書式一覧を見てもどこにも

見当たらない。よくよく見てみると類似する書式があり、想像力を働かせることが

できればそれが正解であることがわかる(まるでクイズだ)。

ちなみに、近隣市町村が公開している書式一覧には該当する書式が存在していた。

 

しかも、誤った書式の申請書類を提出したことが発覚したのは、直接書類を提出

した行政機関ではなく、その上部の機関から指摘を受けたことで明るみに出た。

つまり、直接書類を提出した行政機関も間違いに気が付かなかったのである。

誰もがついてくることができないルールは、もはやルールとは言えないのではない

だろうか。

 

法律や制度を監督する行政府は、「制度が複雑であればあるほど良い」と考えて

いるふしがある。そうした方が、国民や事業者より優位な立場に身を置くことが

できて管理監督しやすいからだろう。

しかし、複雑化しすぎて、自分たちもそのルールに従って動くことが出来ないとは

何と滑稽な事か。

「該当する全ての人に守ってもらいたい」と思うのであれば、わかりやすくルール

を作ればいい。今回問題となった書式をとっても、複数に分類せず一本化して

注釈をつければよいだけだと思うがそのようにはなっていない。

 

『仏作って魂入れず』とはこのことか。

利権と金が目的だろう

2022.5.27

『介護保険の福祉用具貸与・販売をめぐる厚生労働省の有識者会議で、福祉用具専門相談員の資格のあり方が話し合われている。26日の同会合で、複数の委員が一定のサイクルで研修の受講を求める「更新制」にすべきと提案した。更新制という発想のベースには、”福祉用具専門相談員には常に最新の知識が必要”という認識がある。サービスの質の更なる向上を目指す議論の一環だ。』

との報道を見て思うこと。

 

何なんだ、その「更新制という発想のベースには、”福祉用具専門相談員には常に

最新の知識が必要”という認識」って。

最新の知識が必要という点においては、医師や看護師の方がよほど重要であろうに

それらの資格は更新制ではない。

また、教員免許も今年の7月から更新制が廃止となることが決まっている。

 

高齢者介護事業にかかわる資格の中で唯一更新制が導入されているのは、介護支援

専門員(ケアマネジャー)であるが、未だに資格そのものを更新しなければなら

ない理由が理解できない。

「常に最新の知識が必要」というのなら、何らかの講習や研修を受講することを

義務付ければよいだけの話だろう。

 

医師が法に基づかない安楽死に手を貸したり、教員による暴力や性的虐待といった

報道を何度も耳にするたびに、こういった資格こそ適性を図るための更新制を導入

したほうが良いのではないかと思ったりする。

また、遠い昔の話になるが、担当していたご利用者の主治医である高齢の医師は、

明らかに認知症を発症しているということがわかる状態にあったが、そのご利用者

の診察を行い、薬を処方していた。診察中に隣にいた看護師がその医師に事ある毎

に耳打ちをしたり、代わりにカルテや処方箋を記入したりしていたので異様な光景

に思えたことを今でも覚えている。

 

より更新制の導入を検討しなければならない資格があるにも関わらず、それらの

資格には導入されなかったり、廃止になったりするのは政治的発言力が強いか弱い

かの違いだろう。

 

それでも、『資格の更新』は、役人の天下り先とその財源の確保にはなくてはなら

ない存在であるため、それなりの母数はあるが政治的発言力の弱い資格を狙い撃ち

して、「資格更新制」をもっともらしい理由をつけて導入しようと画策する。

 

この手の話は、きな臭い利権と金の動きが見え隠れする。

専門家ではなく妄想家

2022.5.26

以前、当ブログで『2024年度の介護保険制度改正に向けた議論で論点となって

いる要介護1、2の方が利用する通所介護及び訪問介護の総合事業への移行』に

ついて自分の見解を述べたが、そこかしこの“専門家”と称する方々の見解を聞いて

思うことがある。

 

早い話が、その専門家の多くが同総合事業への移行を反対している。

反対することは自由だし、その見識が妥当であれば特にいうことはない。

ただ、その多くの専門家の論拠の中で決定的に不足している材料がある。

それは、サービスの受け手となる高齢者は増え続けている一方で担い手となる若者

が減り続けている現状についてである。

 

その多くの専門家は全くと言っていいほど、この点について触れずに自分たちの

言いたいことだけを垂れ流ししている。

彼らの論法は決まってこうだ、「介護保険事業から総合事業へ格下げしてしまえば

サービスの質が低下し、支援を必要とする高齢者の在宅生活が脅かされる。」

 

理想を思い描き、そのことを口に出すことはとても良いことだろうと思う。

ただし、触れたくない現実から目をそらして理想論のみをまるで正論であるかの

ように述べる人は、専門家ではなく妄想家であろう。

現実にある細かな課題を一つ一つ丁寧にクリアしていった結果として、理想が

近づいてくるものである。

 

高齢者介護の現場は、100から110、120と年々サービスをご利用される方

が増えている一方で、担い手が100から90、80と年々減ってきているという

現実に直面している。

日本の人口が年々減ってきているのだから、このことは他の業種にもあてはまる

現実的な問題である。

「仕事は増えるが人出は減らす」は、ブラック企業の典型的な例である。

 

ごく一部の専門家は、人手不足を解消するために外国人労働者を積極的に雇用する

必要があると説いている。確かに日本での就労を希望する優秀で勤勉な外国の方は

たくさんいることだろう。

しかし、どれほど優秀な外国の方であっても日本の文化や風習になれる時間が必要

であろうし、外国の方から支援を受けることになれていない受け手にもある程度の

時間が必要であろう。

 

そのため、介護サービスの量を減らすという意味におけるサービスの質の低下は

待ったなしで避けようがない現実である。

そのことを棚に上げて理想論を語る人は、もはや専門家ではない。

一時的にではあっても、下げざるを得ないサービスの質をどのように補填していく

のかを語ってくれる人が真の専門家であろう。

しかし、専門家ではなく妄想家と呼べる人たちには、残念ながら補填する手立てを

講じる引き出しがない。だから“反対!反対!”と叫ぶしか能がない。

この様な人たちの言動に惑わされてはいけない。

 

当方では、一時的にではあっても下げざるを得ないサービスの質を補填するための

活動を地道に続けている。こうした活動は、手間暇がかかるし目に見える形の成果

を出すためにもそれなりの時間を要する。それでも、我々はこの地道な活動の手を

止めずに進んでいこうと思う。

 

大きな役割を持つ今どきの若者

2022.5.25

いつの時代でも多くの年配者から聞かれるセリフに「今の若い者は・・」がある。

そのセリフが口から出る理由は様々であろうが、その多くは自己保身や自己肯定感

からくるのではないだろうか。

 

私も、膝を痛めたことや加齢とともに出来なくなってきたこと、無理が効かなく

なってきたことを数多く経験する年齢となって、若いころの自分を羨んだり、今の

自分を否定したくなることが増えてきた。

 

それでも人は自分のことが一番かわいいものである。

「確かに昔の自分の方がよく動けていたが、今の自分の方が世の中の役に立つだけ

の経験を持っている。それどころか、今どきの若い者は・・」といって、自分の

存在価値を見出そうとしたり、対角にいる者を蔑むことによって自分を肯定的に

とらえようとしたりする。

こうした人の心理は、時代が変わっても大きく変わることはない。

 

しかし、今の高齢者ほど今の若者に支えられている時代はないのではなかろうか。

直近の統計データによると、現在の高齢化率は約28%である。つまり、4人に

1人以上が高齢者ということになる。そのため、年金等の社会保障制度は3人以下

の若者が支えなければならない計算になる。

今の高齢者が若者だったころの1970年の高齢化率は約7%である。つまり、

13人に1人が高齢者であったため、多くの若者で1人の高齢者を支えることが

できた。

 

時代の背景によって、その時の若者が抱える課題や役割は大きく変わってくるが、

望む望まざるにかかわらず、この時代に生きる若者は高齢者を支える担い手として

大きな役割を持っている。

その担い手である若者は、当ブログで何度も取り上げている通り、多数決の原理に

押しつぶされ、少数派とされ、恩恵を享受する機会が非常に少ない状況にある。

 

昨年の我が国の出生者数が過去最少を更新したそうである。

自分を守りたいという人の心理を理解できないわけではないが、今の若者への理解

を深めて、愛情をもって接する気持ちがなければ、少子化対策など絵に描いた餅で

終わることだろう。

 

若者をないがしろにした結果、一番困るのはだれなのだろうか?

ルールやマニュアルは何のため?

2022.5.24

先週末に政府が新型コロナウイルス対策におけるマスクの着用に関する見解を示し

たことについて、多くの国民が反応しており、その多くが「政府は、より具体的な

指針や基準を示すべきだ」という声らしい。

日本の国民は、いつからこんな間抜けになったのだろう。

自身がマスクを着用すべきか否かについて、細かな指示がなければ判断できない

国民に成り下がってしまったということだろうか。

 

何らかの行動を起こす際に、自分で判断せずにひたすら指示を待ち、指示通りに

動くということは非常に楽なことだと思うしリスクを回避しやすい。

自分で判断しなくてよいのだから考えることをしなくてもよい。そして、何か問題

が発生したり批判を受けることがあっても、指示を出した者に責任を転嫁すること

ができる。『指示待ち人間』の本質はここにあるのではないだろうか。

その指示待ち人間が多数を占める集団においては、物事を推し進めるために多量の

マニュアルや多種多様なルールが作られる。そして、そのマニュアルやルールが

あまりにも多すぎて、指示を出す側も受ける側も覚えることができずルールブック

を持ち歩くことになる。何と滑稽なことか。

 

ルールは、人間社会において守られるべき大切な約束事である。

しかし、いつしか「ルールを作ること」が目的となってしまい、「人間社会を円滑

に進める」という本来の目的から逸脱してしまうことが散見される。また同時に、

「ルールを守ること」を第一として、「人間社会の営み」を顧みず同調圧力により

ルールから外れた行動をとる者の統制を図ったりする。

以前、日本の学校には理不尽あるいは下らない校則が多いという話題を耳にした。

ルールを作っている側も従う立場の側も考えることを放棄した結果だろう。

 

世の中には、その場で判断に迫られることは非常に多くある。そして、時にはその

判断が自分や周りの人の生命や生活を守る重要な役割を持つこともある。

例え細かなルールやマニュアルがあっても、考える習慣が身についていなければ

適切な判断や行動に結びつかないのではないだろうか。

先の知床半島の沖合で乗客・乗員26人を乗せた観光船が沈没した事故への対応も

しかりである。北の寒い海で船が沈没した場合、救命いかだがなければ乗客乗員の

命を守ることはできないことなど少し考えればわかることである。事故後に慌てて

無線や救命胴衣の法整備を進めようとしていることからも、対応にあたっている者

たちはルール作りに没頭して、考えることを放棄しているとしか思えない。

 

自らから考えることも判断することもせず、自分の行動に責任を持つこともしない

ことが良いとされる世の中になるのであれば、「人間はいずれコンピュータに支配

される」というSFの世界が現実になるかもしれない。

どういった場面でマスクを着用すべきか、少しは自分で考えろよ。

宝の持ち腐れ

2022.5.19

数日前から膝に違和感はあったが、気になるほどではなかったのでそのまま放置

していたら、昨日になって痛みに変わったため、患部を冷やし痛み止めを服用して

様子を見ていた。今朝になっても痛みは残っていたが何とか職場に到着できたので

仕事をしていた。ただ、このまま様子を見ていていいのか、病院へ行ったほうが良

いか迷っていたので、当方所属の理学療法士からアドバイスをもらうこととした。

この時ほど、身近なところに専門家がいることのありがたみを感じたことはない。

 

そこでフッと思ったことは、「様々な病気や障がいを抱えている要援護者にとって

は、こうした身近な専門家の存在がより重要であろう」ということである。

しかし残念ながら、その専門家がどれほど高いスキルを持っていても、使われ方に

よっては『宝の持ち腐れ』になってしまう。

 

介護保険制度下における要援護者がリハビリ専門職からサービス提供を受けるため

には、主治医がその必要性を認め、ケアマネジャーがそのサービスを調整しなけれ

ば実現しない。その要となる方々の理解が不十分だと同要援護者は貴重な出会いの

場面を奪われることになってしまう。

 

特に在宅生活におけるリハビリ専門職の役割は広い。

多くのケアマネジャーが作成するケアプランを見ていると、リハビリ専門職から

サービス提供を受ける理由が、「心身機能の維持・向上」となっていることが多く

ある。果たしてこの理由って正しいのだろうか。

 

確かに、新たに病気を発症したり、既往の悪化によって受けた障がいを治療する

目的があれば、『機能を元に戻すための施術』が必要となるかもしれない。

しかし、ケアマネジャーが作成するケアプランの主な目的は、『病気を治す』こと

ではなく、『生活を維持する』ことである。

衰え行く心身機能や回復の見込みが薄い障がいを抱えながら、いかにして生活を

維持していくか計画するのがケアプランである。

リハビリ専門職からサービス提供を受ける理由を心身機能の維持・向上とした場合

機能が維持向上できなければ、リハビリ専門職の存在意義も在宅生活の継続も難し

いと言っているに等しいのではないだろうか。

 

既存の能力(身体的能力、経済的能力、介護力、整備された環境)を加味して生活を

維持していくという視点を持った時にリハビリ専門職の役割はとても大きい。

そのことを計画立てることができないケアマネジャーが多いと要援護者は貴重な

出会いの場を奪われ、リハビリ専門職は宝の持ち腐れとなる。

物を作る人と売る人

2022.5.16

ここ数年の介護保険制度にかかる政策の動きとして、介護職員等の処遇改善を図る

ことが続けざまに施行されており、介護現場従事者の賃金や地位が少しずつでは

あるが向上してきているように感じる。

 

しかし、そのことに端を発して、介護現場従事者とその政策の恩恵を受けることが

できない職種との間でちょっとした軋轢が生まれることがあると聞く。

「昨今の政策は、現場職員ばかりが優遇されていてズルい。現場がいくら働いても

その労働をお金に換える作業がなければただ働きをしていることと変わりはないの

だから、事務職員も同様に優遇されるべきだ。」

とか。

「労働をお金に換える作業が不必要とは思わないが、現場で働く者がいなければ

お金に換える作業そのものが成立しないので、現場が優遇されるのは当然だ。」

など。

 

どこの組織(会社)でもよく聞かれる従業者間の論争に、「物を作る人が偉いか、

物を売る人が偉いか」がある。

「売る人間がいても作る人間がいなければ、売る人間の存在価値はない。」

「作る人間がいても売る人間がいなければ、作った物の貨幣価値はない。」

といった具合に。

ちなみに、当方のスタッフは良識のある人たちばかりなので、今までこういった

論争を聞いたことはない。

 

遠い大昔は、“作る”ことも“売る”ことも一人ですべて行っていたのだろう。

しかし、その後に“作ることが得意な人”と“売ることが得意な人”とが手を組む

ことでより大きな利益を生むことができるとわかってからは『分業』という

考え方が定着していったのではないだろうか。

 

例えば、

①100の物を作る力はあるが30の物しか売ることができない人

②100の物を売る力はあるが30の物しか作れない人

とがいた場合、①も②も売り上げは30しかない。

しかし、①が作ることに専念し、②が売ることに専念すると2人で100売り上げ

ることになり、等分すると一人につき50売り上げたことなる。結果、それぞれが

20売り上げを増やすことができたことになる。

 

更に遠い大昔は、衣食住にかかわるすべてのことを一人で行っていたのだろうが、

“効率”が求められる現代社会において、『分業』は人の英知が生み出した結論なの

だろう。

また、政策はそれぞれに目的やねらいがあるので、恩恵を受けることができる人と

そうではない人が出てきてしまうことはある程度仕方がないことである。

しかしそれは、恩恵を受けることができる人の価値が高くて、そうではない人の

価値が低いということではない。

 

つまりは、誰が偉いとか偉くないではないということである。

目先の損得にばかり目を向けてしまうと、物事の本質や将来的なビジョンが見え

にくくなってしまうことがある。

この手の論争を焚きつけている一部の政治家や団体は何を考えているのやら。

人と人とのつながりの価値

2022.5.13

ここのところ続けて、著名人が自ら命を絶つという報道を耳にする。

命を絶つに至った原因は一つではないだろうし、真の理由は本人しか知り得ない

ことなので、本人以外があれこれ予想することは適切ではないだろうと思う。

よく目にしていた著名人ばかりで、個人的に好きな人たちばかりだったので、残念

でならない。亡くなった方々へ心よりご冥福をお祈り申し上げたい。

 

しかし、命を絶つに至った理由をあれこれ予想することが不適切であったとしても

『コロナ渦における活動等の自粛』も一因としてあげられるのではないかと思って

いる。そしてそのことは、芸能の世界に身を置く人たちばかりではなく一般社会に

おいても同様ではないのだろうか。

 

人は一人では生きてはいけないと思う。

人は人とのつながりや結びつきによって、自分自身の存在を確認することが出来

たり、生活意欲を高めたり、情緒の安定を図ったりしているのではないだろうか。

そして、そのことが明日への暮らしにつながっていくと私は思う。

たとえ、テレビ電話やリモートで会話ができる便利なツールがあったとしても、

対面することで感じることができる温もりや雰囲気を代替えすることはできないの

ではないだろうか。

 

そのように考えると、当ブログでは再三に渡って訴えている『新型コロナウイルス

を感染症法の2類相当への分類は不適切』を改めて訴えたくなる。

国は、一体だれを守ろうとしているのだろうか。

 

この様な訴えを繰り返していると、「おたくは、基礎疾患を持つ高齢者の多くへ

サービス提供を行っている事業者なのにそんなことを言っていいのか」との指摘を

受けることがある。

しかし、その指摘は的外れも甚だしい。

一般の方々は、新型コロナウイルスが流行していなければ今ほどウイルス感染予防

に関心を持たなかったことだろうが、我々は平時からウイルス感染予防対策を講じ

ており、そのために必要なマニュアルや備品を常備しており、研修等も繰り返し

行っている。この度の新型コロナウイルス感染症拡大で我々が変わったことといえ

ば、「従うべきルールが増えた」という程度で平時の対応と何ら変わりはない。

 

今現在まで続いている同ウイルスへの対策は、“駄策”でしかない。

ウイルス感染予防対策を平時のこととして、国民の意識を高める必要はあっても

人と人とを無用に分断することはあってはならないと強く思う。

 

余談だが、

著名人が自ら命を絶ったという報道を自宅前で中継しているメディアに対して批判

する声が上がっている。

私も全く持って同感である。わざわざ自宅前で中継する意味が全く理解できないし

故人や遺族への配慮、倫理感のかけらもない。低俗な視聴者への受けを狙った下品

極まりない行為である。

だから『マス“ゴミ”』と呼ばれたりするのだろう。

我々は地域の皆様の支えがあってこその存在

2022.5.12

昨日、当方の事業所が所属する大麻第二住区自治連合会の役員の方から電話連絡を

頂き、当方が4月1日に開設した新規事業について、「地域の皆さんもとても気に

なっているので、自治連の広報誌で取り上げたいので詳細をうかがいたい。」との

ことだった。

そして、先ほど担当の役員さんと話を終えたところである。

日頃より大変お世話になっている地域の方々からこのような申し出を頂いたことを

光栄に思うとともに大変ありがたい思いがこみ上げた。

 

当ブログでお伝えした通り、同新規事業の開所式は、コロナ渦にあって身内のみで

慎ましく行ったこともあって地域の多くの方々にご紹介する機会が少なかった。

『自治連の広報誌』を通じてより多くの方に当方の事業を知っていただけることを

期待していると同時に、我々も地域の皆様に対して今まで以上に貢献できる会社で

ありたいと強く思う所である。

 

同新規事業(ナーシングホームみのりの丘)は、おかげさまで開設2カ月目で予定

していた定員(18名)が一杯となった。次月には定員の見直しの手続きを進める

予定でいる。

 

この様なありがたい状況になったのも、地域の皆様の支えがあってこそと心から

感謝している。

今後も地域の皆様と相思相愛?の関係を続けられればと願ってやまない。