何なのだろうか、ここ最近の少子化対策の議論の方向性は。
児童手当にしても、所得税法のN分のN乗方式についても、本質的な議論ではなく
「いかにして、公平に国民に金をばらまくのか」という話になってしまっている。
本来は、「社会全体で子をどのようにして育んでいったらよいのだろうか」そして
「子を産み育てるという高いハードルをどれだけ下げることができるのか」という
話にならなければならないのに、「所得制限がどうした」とか「高所得者が有利に
なる」だとか、本質とは全く違ったところにばかり話題の中心が偏っている。
核家族化や夫婦共稼ぎが当たり前となっている昨今において、「金持ちの家の中に
は子供がいっぱいいて、貧乏な家には子供がいない」などという状況ではない。
所得の高低にかかわらず、子を産み育てることが非常に高いハードルとなっている
ことが現代社会の課題であり、それが少子化につながっている。
だから、「金をばらまけば子供が増える」といった短絡的で乱暴な発想では、この
課題を解決することはできない。
資本主義社会において、所得や貧富に差が出ることは必然である。そして、その差
を埋めるため様々な政策を講じることもまた当然なことである。
しかし、『社会全体で支え合う社会福祉や社会保障』と『所得や貧富の差を埋める
再分配』を同時に語ることほど不毛な議論はない。
本来それらは個別の課題として個別に語られるべきであって、一つの法制度に両方
の性質を取り込むことには無理がある。
こうした不毛な議論は、高齢者介護の分野でも良く展開され、ウンザリする。
介護保険サービスは、介護が必要で困った状況になった場合に社会全体で支えよう
とする社会保障制度であって、低所得者を救済する制度ではない。
にもかかわらず、そのことが同時に語られてしまい、制度があらぬ方向に進んで
しまうことを幾度となく見てきた。結果として、もっと充実させなければならない
介護保険サービスが骨抜きの状態になって、本当に困っている人に支援の手が届か
ないことが増えてしまう。
最近の少子化対策の議論を高齢者介護の分野に置き換えるとすると、「金をばらま
けば要介護者を家族だけで支援することができる」と言っているに等しい。
社会には社会の、家庭には家庭の役割がある。そして、その役割はそれぞれ違った
性質を持つものであり、同一のものとして語られるべきものではない。